長女ばかりを特別扱いしてきた両親。そのせいか姉の性格は極悪そのもので、私と妹はたびたび虐待された。→弟が誕生すると姉の立場が窮地に。姉のとった行動と行く末に衝撃が。
306 :名無しさん@おーぷん 2015/08/12(水) 07:05:31
一家離散した結果が因果応報www
もう随分昔のことですが、スレ読んでいるうちに思い出したので投下。
文才がなく、ムダに長くなってしまいましたがよろしければお付き合いください。
文中、消化不良なところがあったら「文才ねえなこいつ」でスルーしてください。
うちは上が女3人の4兄弟。
次女の私と三女の妹が年子。長女は早生まれで学年は三つ上。末っ子の弟だけ年が離れている。
それなりに資産家な両親だったが、両親の思想は長男教の変形で長女の姉ばかり大事にされていた。
跡取りだからと姫と呼び、玩具もお小遣いもほしいだけ与えていたが、どうせ嫁に行くんだからとすぐ下の私たち姉妹は捨て置かれた。
ほぼいないものとして扱われていたので、見かねた近距離に住む祖父母や叔父夫婦や叔母が助けてくれなければタヒんでいたと思う。
私と妹は姉の奴隷だった。
両親のいないところで殴られたり、階段から突き落とされたり、お年玉を巻き上げられたりは日常茶飯事。
両親に訴えてもムダだった。
蝶よ花よと育てられ、ワガママ三昧だった姉だが弟が産まれたとき彼女の天下が崩壊した。
長男教の両親の愛情は、長女の姉から弟に移った。
姉はそれが我慢ならなかったらしい。
弟の命が危険にさらされるようなマネを何度もした。
(バスタブに沈めたり、口に鉢植えの土を詰めたり、あげたらきりがない)
それまでの姉の態度から、弟に何をするのかは想像がついたので私と妹がガードした。
元々両親は結婚が遅く、長女の姉を産んだ時点で母は35過ぎ。末っ子を産んだときはもう50を過ぎていた。
高齢出産と高血圧が原因で身体を壊し、入退院を繰り返すようになった。
まーーーーったく愛情を受けずに育った私と妹が母の心配などするワケがなく、うしなった愛情を取り戻そうと姉が基地に磨きがかかって行くのも、父が嫁の看護と基地姉の間でおろおろしている姿もどうでもよかった。
ただ弟には罪はないので、祖父母と叔父叔母の助けを借りながら子守りした。
私たちが中三になるとき、両親は私と妹に高校受験すらゆるさず、中卒で働いて家に金を要れるように要求した。これに私たちがブチきれた。
祖父母を交えて話し合った結果、私は叔母のもとへ、妹は叔父夫婦の元へ養子に出た。
(それぞれ養子には出たが、叔父夫婦と叔母は電車で30分の距離に住んでおり、私たちは帰る家が違うだけで同じ高校に進学した。)
叔父夫婦はタヒ産でお子さんを亡くして以来ふたりきりの生活で、幼いころから私たちを可愛がってくれた。妹は高校大学を無事に卒業した。
叔母はキャリアウーマンで、私が大学卒業の年に結婚したからその当時は独身だった。
家事が苦手な人だったけど、年の離れた姉と暮らしているみたいで楽しかった。
気がかりだったのは、実家に残してきた弟。
その弟は王子様扱いする両親と自分を怨敵扱いする姉に挟まれ、幼児なのに修羅場な毎日を送っていた。
(このころ祖父が亡くなり、痴呆がはじまった祖母はホームに入居した。)
まともな育児をしない両親に代わり、家事手伝いと称して私と妹が実家に戻って弟の世話をした。
そのたびに弟の身体に痣があるのを見つけ、姉の仕業だと察した私たちは弟を病院に連れて行き診断書をとった。
何とかこの家から弟を助け出そうと叔父叔母と相談している最中、事件が起こった。
姉は高校受験に失敗し、底辺校に行ったが大学受験にも失敗した。
高卒で社会に出たものの働かず、男の出入りが激しくなり、実家に頭のおかしい連中を連れ込んでは夜通し大騒ぎしていた。
これに恐怖を覚えた弟が実家から逃走。
夜道を自転車でかっとばして迷子→交番で保護→叔父夫婦のもとへ連絡→無事保護
幼稚園の男の子が補助輪のついた自転車で逃げ出すくらいだから、実家が相当怖かったんだと思う。
姉一味は弟にシツケと称した暴行をくわえており、両親は知っていたが見て見ぬふり。
姉のいないところでは猫可愛がりをしていたが、年齢的に姉と力関係が逆転。逆らうと姉一味の暴力が両親に向けられるから。
(叔父のもとへ警察から連絡が行ったのは、何か遭ったら叔父に連絡するよう私たちが躾けていたため。)
この一件で、叔父が法的手段に訴えた。
先に少し触れたけど、叔父夫婦は実子をタヒ産で亡くした経緯がある。
元気に生まれてきた子供をこ○しかねない私両親は叔父夫婦にとって鬼畜にしか見えなかった。
私たちが病院でとっていた診断書と、弟の身体に残されていた煙草を押し付けた痕と、ご近所の証言で日常的に虐待が行われていると証明された。
(姉一味の大騒ぎと、弟の悲鳴じみた声を何度も聞いており、警察にも何度か相談が入っていたらしい)
両親と姉は不起訴にこそなったが、裁判所は弟が伯父の養子になることを認めてくれた。
とはいえ長男教の両親がそう安々弟を諦めるはずもなく、私たちが大学進学で地元を離れたあと何度も「宅の跡取りかえせーっ」て凸かましたらしい。
接触禁止になっても諦めない根忄生だけは立派だが、弟にとっては災難でしかなかったと思う。
そもそも弟からすれば、両親は長女の暴力が自分たちに及ぶのを恐れて自分を人身御供にしたうえに、猫可愛がりするだけで基本的な躾すらしていなかった。
(食事は全部手づかみか犬食い、「ハミガキってナニ???」の状態を私と妹がどうにか矯正。叔父夫婦のもとに養子になってからは叔父夫婦が教えてくれた。)
両親がらみのいざこざは多々あったが、叔父夫婦は弟を実子として育ててくれた。
先に養子に入った妹だけでなく、私にもほんとうによくしてくれた。
それから時が流れて、私たちはそれぞれ地元を離れて所帯を持った。
今でもお互いの交流がある。
私たち三人を助けてくれた叔父夫婦と叔母は亡くなったが、私たちの結婚式で毎度爆泣き大合唱が起こったのはいい思い出。
(叔父と叔母が爆泣き→同時多発もらい泣き→会場中で爆泣きの大合唱。)
三人とも、子供が生まれるたびに熱狂して喜んでくれた。
私たちの子もじーちゃんとばーちゃんが大好きだった。
一方の実両親と姉は因果応報の真っ最中。
絶縁しているので、詳細は不明。
顔をあわせたのは親族の冠婚葬祭のみなので、推察も混じって時事列があやふやな面がありますが、流れとしては以下のとおり。
姉は結婚と離婚を繰り返し、×がつくたびに子供が増えたものの全員姉の雛型。
私たちに暴力を振るっていた姉は、野生化した姉子たちの暴力を受けるようになったとか。
そのストレスを姉は父母に暴力という形で発散していたらしい。
基地しかいない家なので近隣からも孤立し、酒浸りになった父は酔って冬の公園で凍タヒした。
(私たち三人にも連絡が来たが、だれも参列せず)
この直後から母と姉がSOSを送ってきたが、全員スルー。
私と妹は気が強いうえに「三倍返し上等」なので、「あのね、もしよかったら……」程度だったが、弟には相当粘着した。
長男教のなごり???
SOSの内容は金の無心と自分たちの老後の世話。
今まで一度も働いたことのない姉は離婚のたびに慰謝料をむしられ、両親の資産がそれに消えたwww
おかげで母はホームにも入れず、自分の年金を吸い取る姉と姉子の暴力におびえながら実家で暮らしている。
哀れっぽく同情を誘うようなことを、顔を合わせるたびに言うけど何で助けてもらえると思うんだろう。基地の考えは理解不能だ。
祖父の法要の際に、姉がこう金切り声で叫んだ。
「兄弟なんだから助け合うべきでしょうー!!援助させてやるって(以下言語崩壊)!!」
それを言われた弟は、集団で暴行された挙句に補助輪のついた自転車で夜中に逃げ出した子の成長図なわけだが、もう幼稚園児ではないし、30過ぎの親父だ。
母はもう80過ぎ。私たち三人は地元から飛行機の距離に居を構えているし、連絡の窓口は携帯だけで親族はだれも住所を知らない。教える気もない。
実の母親に冷酷な仕打ちかもしれないけど、私も妹も弟も、自分たちの家族を守ることのほうが大事。
万が一にでも居所を知られて、自分の夫や妻、子供に実害が及んだらと思うといくらでも鬼になれる。
そんな私たちだけど、叔父夫婦と叔母の葬儀のときは棺に縋って泣いた。
実の父親の訃報には「あっそう」だったけど。
つまらない話を長々としましたが、ここまで読んでくださった方がいたらありがとう。
文才なくて長くなってごめんなさい。
実母を見捨てた非道な話なので、周囲には漏らせずここで吐き出させてもらいました。
不快になった方がいたら申し訳ない。